羽島歴史散歩

羽島歴史散歩
1 木曽川今昔物語 2006.02.08
2 竹ケ鼻城の歴史資料(竹ケ鼻城主・不破源六廣綱) 2006.02.08
3 羽島の歴史・八神城祉 
  八神城主・毛利掃部介の娘(竹鼻城主・不破源六正室)自害の地・・・三七松の遺跡
2006.02.08
4 美濃路街道散歩 2005.09.07
5
 不破光治(不破河内守光治)に付いて  2006.01.31
・・・現・岐阜県安八町神戸町西の保の領主(西の保城)美濃・斉藤家滅亡後、織田信長に従臣。のち安土城代となる。(角川 日本地名大辞典より)
(2006年NHK放送中の司馬遼太郎作 「功名が辻」では、山内一豊の妻となる「千代」を養育したのは不破市之丞となっていますが、時代的には不破家の系図では、不破河内守光治以外にそのような人物は該当しません。しかし、河内守光治は信長に従属した後の名乗り名で、別に、彦三権内・道貞(通貞、通定ともいう)とも名乗っています。斉藤家に属していた時は「通称名」としての市之丞であったのかもしれません。今後さらに調べてみます)

@不破姓の由来  (
2006.01.31)

A西美濃四人衆---不破光治の文献資料

B 不破家の系譜・・・・・系図と伝承人物像

C
不破家初代 不破河内守光治 歴史的関連資料----岐阜県安八郡神戸町・日吉神社2009.12.30

D武家家伝_不破氏(2006.1.31)

E壬申の乱と不破神社(安八町墨俣町上宿--鎌倉街道沿い) (2006.01.31)

F南宮大社と不破と金山彦命の関係 (2006.1.25)

2006.01.31
6 薩摩義士 宝暦治水の偉業を偲ぶ 2005.09.07
7 宝暦治水工事に関する年表
2005.09.07
8
羽島・中区沖の経塚 2006.02.08

 


(1)木曽川今昔物語    2002.4.28--2006.02.08更新

信長の天下統一を支えた川並衆

木曽川は戦国時代の高速道路

戦川岬代、木曽川を郷台に活躍した武装集団がいました。その名は「川並衆」。長らく歴史の陰に埋もれていた披らの存在が、江南市の吉田家の土蔵から見つかった大量の古文書と、各務原市、犬山市、江南市、岐南町、川島町の市長、町長や川並衆の子孫の寄り合いによって、現在、少しずつ明らかにされてきています。彼らこそ信長を、そして秀吉を歴史の最前線に送り出した、知られざる立役者だったのです。

 信長が生まれたころ、木曽川本流は革手、三宅(現岐南町)あたりを流れていました。しかし何百年の間に玉石や土砂がたまり、洪水のたぴに流れきれない水が上流の犬山付近までさかのぼり、その濁流は尾張国に垂れ流れるように入って、一の枝、ニの枝、三の枝と、いく紡もの文流を作りました。 洪水の被害という面では非常にやっかいな支流も、当時のこの地域の物流には大きな役割を果たしました。大きな川に橋を架ける技術がなかつた時代、陸路を使うよりも無理なく圧倒的に早く運べる川の航路は、まさに現在でいう後索道路。いかだや帆掛舟を縦横無尽にあやつり木曽川の航賂を統治していたのが、船頭の頭である蜂須賀小六、前野将右衛門、坪内宗兵衛、松原内匠ら「川並衆」だったのです。 その大河の流れと川並衆を活用して財をなした人物が、尾張の郡村(現江南市)の油商人、生駒八衛門です。生駒は、主に夏に起こる洪水によって運ばれてきた肥えた土に、9月ごろ菜種をまき、菜の花からしぼった油で行商しました。油に火をともして明かりをとっていた当時、川運で運ばれた生駒屋の油は各地で大当たりします。その生駒の川心棒だったのが川並衆を取り仕切っていた蜂須賀小六.。そして生駒の富を頼り、日々生駒屋敷に出入りしていたのが信長で、信長の政商としての役割を担っようになった八衛門は、川並衆に信長への協力を要請します。

川を制する川並衆を見方に

天下統一の足がかりとして、美濃攻略が必要だった信長。しかし彼の代になって織田家は3つに分かれ、美漉への足がかりとなる犬山城は織田一族でありながら信長と敵対する織田延清の械。この犬山攻めと、同時に川向こうの美濃の鵜沼城、伊木山城の攻略を信長は考えます。しかし当時わずか1500ほどの兵力しかなく軍備も枯渇状態。戦えばとても勝ち目のないことは明らかでした。 ところが、伊木、鵜沼とも無血開城という驚くべき勝利をを信長はおさめます。ここに川

並衆の力がありました。川並衆は、その集合体としては2000を超える兵力。さらに伊木山城の城主・伊木清兵衛は、実は川並衆の一人だったのです。美濃、尾張と国の違いはあれ、川初の豪族城主たちは川で生きるものとして友情は非常に厚く、伊木は蜂須賀小六などの説得によって無血開城を決めます。これをきっかけに犬山、鵜沼を攻略した信長は、その2年後、美渡の川並衆・松原内匠見などの力によって墨俣一夜城作戦を成功させ、一気に歴史の表舞台へ登場していきます。戦国時代、尾張と美濃の境を流れる大河は、美濃の斎藤家のものでも尾張の織田家のものでもなく、まさに川並衆の世界。披らを身方につけたものが天下取りの運を得たのです。


1.竹鼻城の歴史資料





1.

2.

3.  現在の竹鼻城本丸跡の標柱(羽島歴史民俗め映画資料館 前)


4.


5.竹鼻城(拡大)と不破源六の名前が記載されている。


6.


6.



竹ケ鼻城の字絵図


7.竹ケ鼻城の字絵図の拡大




関が原合戦と竹鼻城


竹ケ鼻城の戦い(合戦屏風絵図)

8.

関が原合戦用の入り組んだ木曽・長良・揖斐川の字絵図


9.字絵図拡大(羽島北部の地名が詳細に記載されています)


10.竹鼻城や大垣・小牧・岐阜城などの配置絵図


11.10の拡大絵図・・・竹鼻城は城郭が2区分されて記載されています。




3.西美濃四人衆・不破光治に付いての各種文献

@出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不破 光治(ふわ みつはる、生年不詳 - 天正8年(1580年))は、戦国時代〜安土桃山時代の斎藤氏・織田氏の家臣。不破勝光(彦三)の父。太郎左衛門尉・河内守。

早くから美濃国の戦国大名斎藤氏に仕え稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全たちと共に西美濃四人衆と言われた。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたとも言われているが、斎藤氏滅亡後は織田氏(織田信長・信忠)に仕え主に外交面で活躍した。

柴田勝家に従って越前一向一揆を平定後、越前竜門寺城の城主となった。ともに周辺地域を治めた佐々成政、前田利家らと府中三人衆と呼ばれた。

一説には美濃時代に光治と近隣の竹中半兵衛の間には領地の境界を巡って対立があり、不仲だったとも言う。

A■西美濃四人衆
安藤守就
稲葉一鉄
氏家卜全
不破光治

(注)美濃三人衆安藤守就 稲葉一鉄 氏家卜全
いずれも斎藤家の重臣だったが龍興を見限り、信長に内通した。不破光治を加えて西美濃四人衆とも。

B不破光治(ふわ・みつはる) ?〜1580
通称は彦三。河内守・太郎左衛門尉。美濃国西保(神戸)城主。不破通直の子。
美濃国不破郡の豪族で、早くから土岐氏に仕え、次いで斎藤氏、元亀元年(1570)には織田氏の幕下となる。斎藤氏に仕えていた頃は美濃三人衆に比肩するほどに重用され、三人衆に光治を加えて「西美濃四人衆」と呼ばれていた。
天正3年(1575)に織田信長の越前攻略に従軍し、勲功あって柴田勝家の与力大名として越前国府中10万石を前田利家・金森長近と共に賜り、3万3千3百余石を領有する。
天正8年(1580)12月14日没。

C不破光治(ふわ みつはる) ????〜1580 
○彦三 太郎左衛門尉 河内守
父:不破通直 子:不破彦三直光、彦五郎
 早くから美濃・土岐氏に仕え、後、尾張・織田氏家臣となる。越前攻略に功あって柴田勝家与力となり越前府中を領有、“
府中三人衆”の1人となる。

D府中三人衆 前田利家、佐々成政、不破光治

 1575(天正3)年、越前朝倉氏を滅ぼした信長は、府中10万石を前田利家、佐々成政、不破光治に分封します。これにより利家は39歳にしてはじめて3万3千石の大名となります。彼らは「府中三人衆」と呼ばれ、越前8郡を治める司令官柴田勝家の目付け(監督)役でした。信長勢はこの越前平定にいたるまでに朝倉氏や浅井氏、越前一向一揆衆を滅ぼしており、これらの戦が、利家の北陸地方への第一歩でした。

1575

E龍門寺城

正安元年(1299)悦巌崇善が龍門寺を創建。

不破光治

柴田勝家旗下で府中領十万石を小丸城の佐々成政・府中城の前田利家と均分し府中の治政を行い府中三人衆と呼ばれた不破光治の居城。朝倉討伐や一揆討伐など信長は度々この城に着陣している。