各務原関連史跡  1.村國神社

村國連男依(むらくにむらじおより)
村国氏は、美濃国各務郡を本拠とした一族。男依より前の村国氏について何も記録が無く、全国的には無名に近い美濃小豪族ではあったが、それでも大海人皇子の身辺警護の役を担っていたことは分かっている。 壬申の乱は天智天皇の皇子・大友皇子と天智天皇の弟と言われる・・・大海人皇子との間の、天皇家の継承争いで、12月3日672110日)、近江宮において、天智天皇が46歳で没すると、天智天皇の遺言通り大友皇子が皇位継承。この時、吉野に隠棲していた大海人皇子は、追っ手が掛けられたのを知り、6726月24日727日)に吉野を逃れ、伊賀伊勢国を経由して、皇子の自領である、美濃に入いる。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した(後の不破の関)。これにより皇子は東海道東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。関ヶ原の野上に仮宮(野上行宮)を据え、東国からも兵力を集めた大海人皇子は、7月2日83日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。 美濃・不破・尾張の軍勢は、各務原の村國男依らに率いられて、77日に息長の横河で大友皇子軍と戦端を開いた後、大海人皇子軍を率いた村くに男依の活躍で、連戦連勝して大津の都に進撃を続けた。7月22日823日)に瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町)の戦いの時、身方の軍勢が橋板の無い瀬田橋を進むのを怖じける中、鎧を二枚重ね、楯を取って、矢を防ぎ瀬田橋を一人渡って奮戦し、この行動を切っ掛けとして、美濃軍が突進し、近江朝廷軍が大崩れ。翌7月23日824日)に大友皇子が自決し、壬申の乱は収束した。翌年(6732月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。村國連男依の階位と名前は、乱後、天武天皇が「依(たより)になる男」として名前と「連」の階位を与えたのではないかと推定しています。












































各務原関連史跡 1.村国神社
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