岐阜市東部
3.琴塚古墳
 琴塚古墳は金華山の南東から平地に築かれた、前方後円墳。岐阜市琴塚3丁目にあり、全長115 m、後円部直径68m、前方部幅72.5mある古墳時代最盛期の5世紀に築かれたと推定されています。二重の環壕を持ち 奈良で見かける美しい形の整った環濠付きの前方後円墳の様に、岐阜県を代表する前方後円墳 です。琴塚地区の地元では景行天皇の妃であった五十琴姫の墓 と伝わっていて、これが「琴塚」の名前の由来と言われています。琴塚の周辺は畑地でしたが、昭和40年代の中頃から急激に都市開発が進み、人家が建ち始め、今では古墳の全体像が遠望出来なくなってしま居ました。琴塚古墳の近くには、木曽川の段丘上に当たり、琴塚から各務原市にかけて前方後円墳や円墳が多数有り「琴塚古墳群」を形成していましたが、開発の波にのまれて、琴塚から400m位の各務原市側に「柄山古墳(からやまこふん)」が唯一残っているだけになってしまいました。 明治20年代に琴塚古墳も消滅の危機がありました。廃藩置県の煽りか、この地区は墳丘・周壕の全てが個人の土地で登記されており、林の部分、墓の部分の開墾が進み始めたとき、地元の足立太助氏が、琴塚古墳の保存に立ちあがり、自分の財産を注ぎ込み、土地所有者を説得し、募金運動を募り、琴塚の土地を全て買い取って県に寄付し、「史跡」として指定を受け、古墳全体の保全のため、古墳の裾を石垣で囲い、今日の姿として残したたそうです。くびれ部の造だしもこの時作られたようで、本来の姿から変わってしまった可能性もあるようです。それにしても墳丘の保全は先人の努力で出来ましたが、史跡としての「景観保全」も古墳の「本格調査」も未だに出来ていないのは 残念です。

昭和40年前後?










































岐阜市東部 3.琴塚古墳
           おしまい