寺子屋はしま・ 「美濃の合戦」
     〜源平合戦・墨俣川の戦い〜

              2014.11.26(水)pm7;30〜pm8:45 文化センター401号室
                    羽島市歴史検証委員会・不破 洋














不破家所蔵の 国史画帖「大和櫻」より、源平合戦関係の大和絵を抜粋。


鴨川の水音よりも高い弁慶と牛若丸

 京の五条の橋に毎夜雲突くばかりの大入道が現れ、何の遺恨か武士と見れば刀を取り上げ、拒めば切り捨てるとの風評が京童の口に伝えられ、昼の雑踏に比べ夜は森閑として誰一人通行する者もいない。

 大入道は今宵も忽然と姿を現し、鴨の流れに映る十五夜の月を欄干にもたれて眺めている折、黒塗りの下駄をはいた稚児姿の少年が笛を吹きながら橋に差し掛かり入道が立て掛けた薙刀を蹴飛ばした。これを見た入道、烈火のごとく憤り、薙刀を取って切りかかれば少年は飛鳥の如き早業をもってついに入道を降伏せしめた。

 そこで入道、恐れ入って「ご高名承りたし、我こそは武蔵坊弁慶と申す荒法師なり、心願ありて千振りの太刀を手に入れんと毎晩ここに現れ、今宵は満願に当たり今一振りのところでこの不覚」と双手を付き平伏せば少年は「我は左馬頭(さまのかみ)義朝が九男牛若丸」と名乗る。弁慶驚き且つ悦び、牛若丸(後の義経)と主従の誓いを立て、以後影の形に添う如く献身義経のために仕えた。


悪源太義平、平重盛 紫宸殿の奮戦

 平重盛は「年号は平治なり、都は平安、我らは平氏なり、敵を平らげるに何の疑いあるべきぞ」と平安城を守る藤原信頼(のぶより)、源頼朝を攻めるべく待賢門に自ら五百騎を率い攻め寄せ大音声に「この門の大将信頼卿と見るは僻目(ひがめ)か、かく申すは桓武天皇の苗裔(びょうえい)、太宰大弐清盛が嫡子、左衛門佐(さえもんすけ)重盛、生年二十三」と名乗をかければ、信頼恐れて退く、義朝これを見て「悪源太(あくげんた)はおらぬか、信頼の大臆病者は攻め立てられしぞ、あれ追い出せ」との声に応じ「かしこまりました」と駒に一鞭当て駆け出で大音声にて「この手の大将は誰人ぞ名乗りたまえ、我こそは清和天皇の後胤(こういん)左馬頭(さまのかみ)義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平、十九歳いざ見参」と群がる敵の真ん中におどり込み、続く十六騎共に馬の蹄に蹴散らし斬り倒し、その勢い鬼神の如く、たちまち五百騎を追いまくり、重盛新手を率いて、またも攻め来るを義平、弓を小脇にかい挟み「いでや組まんと互いに左近の桜、右近の橘のまわりを追いつ追われつ、げにあっぱれの戦いであった。」




孝子重盛 父清盛の不忠を諌む(いさむ)

 平家一門の専横が日に月に募り行くを憂いた藤原成親等(なりちから)は、治承元年いよいよ当を結んで、平氏殲滅の計画を立てるに至ったが、事前に発覚して成親等は捕えられた。清盛の思えらく、今度の事件の源泉はむしろ後白河法皇の聖慮に基づくものとなし、かしこくも法皇を幽閉し奉らんと密かに一族郎党を平家の一大事と偽りおのが屋敷に集めた。

 清盛の長男重盛は平服のまま遅れて参所したので、その弟宗盛は、なにゆえお家の一大事に甲冑を召されざるやと詰問したが、重盛はかえって他の者の武装せるをはなはだ訝しき(いぶかしき)ことであると言って戒め、進んで父の前へにじり寄った。さすが非道の清盛もこの凛然として犯すべからざる重盛の態度と清節とに気おくれを感じ、自ら法衣をもって鎧を覆い隠しながら重盛を迎えた。

 重盛はこの挙の甚だ不穏当なるを説き、いわゆる忠孝両道を全うせんため、まず重盛の首を刎ね給えと声涙をもって父を諌めた。ここにおいて臣としてあるまじき大逆を敢えてせんとした清盛は今一歩のところで危うく思いとどまり、あっぱれな重盛の忠孝両道は後世まで称賛されている。

不忠の臣 平清盛が最期

 忠臣にして孝子の重盛が父清盛に先んじてこの世を去ったことは平家のため悲しむべき運命であった。重盛なき後の清盛の専横ぶりは日に募りついに後白河法皇を鳥羽院に幽閉し奉るに至ったので民心は次第に平家を憎むようになった。

 この時。源頼朝が兵を挙げ関東一帯はたちまち源氏に加わり、侮り難き勢力となるや、清盛は孫の維盛(これもり)を大将として頼朝を討つべく、関東に大軍を差し向け、頼朝もまた大軍を率いて駿河の富士川に対陣したが、真夜中一度に飛び立ったあまたの水鳥の羽音に、源氏の来襲とばかり一戦も交えず逃げ帰った。

 この敗報を聞きたる清盛大いに怒り、頼朝を討つべく準備中、突然世にも不思議な熱病に罹り狂いに狂い悶絶した。

 伝うるに、清盛発熱するや体内火の如く熱く、うがいの水もたちまち湯となり、病床に近づけば四五間先より熱さを感じ、清盛のため恨み死にしたるものの亡霊に悩まされ眠ることもできず、その呻き声が門外にまで聞こえついに悶死したという。不忠の臣清盛の死も因果応報と言うべきであろう。

川柳「清盛の医者は裸で脈をとり」


実盛(さねもり)白髪を染め戦場の花と散る

 平維盛(これもり)は越中倶利伽羅(くりから)にて木曽義仲に破られ、加賀の篠原に退き人馬を休めたるに義仲長躯し攻め立てたので、遂に京に引き上げた。

 この篠原の戦いにただ一人、敵の大将らしき武者、身に萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着け、鍬形打ちの兜を脱ぎ黄金作りの太刀をはき、滋籐(しげとう)の弓を持って愛馬を休ませているところへ、義仲の軍にさるものありと言われたる手塚太郎光盛が名乗りをかけた。するとこの武者「仔細あって名乗らざるも敵として不足なし、いざ参れ」光盛馬上より斬り込めば、滋籐の弓で発止と受け、互いに呼吸をはかりしその時、光盛の家来飛び来たり、むんづと後ろより組み付けば子供を捻じる如く難なく首を刎ねた。光盛家来の仇と馬を捨てむんづと組み付き格闘数刻ついに首を掻き切った。

 光盛は義仲の前に出て、しかじかの次第を物語り、声は坂東らしく敵大将かと思わしく首実検と差し出せば、義仲思わずあっと叫び斎藤別当実盛なり、光盛不思議に思い実盛は確か七十の坂を越した白髪の老人と覚ゆといかぶれば義仲答えて、実盛は老境に入り戦に臨めば老人とみられ、人に侮りを受けるも口惜しく髪を染め、身の心も壮者の如く戦場に立ちたるならんとてその勇を称揚した


義仲 法住寺殿を焼き討つ

 北陸にて平家を破り逃げるを追って近江に来たり旭将軍の異名を挙げた木曽義仲は後白河法皇を奉じ京に入り、源義朝敗北以来二十三年再び源氏の白旗がひらめいた。

 京都に入った義仲の軍勢は糧食に窮し、士卒は市中を荒らし、乱暴狼藉の振る舞いをし市民に嫌われ、義仲も田舎育ちのこととて朝廷の礼儀作法にも通ぜず公家らには嫌われるに至り、平家を京より追い出した功を誇り専横の行いが多くなったので、法皇はそのころ勢力があった延暦寺、円城寺の僧兵を召されなお近畿の兵を募らせ給うたところ二万余騎に達し、義仲を京都より追い出さんと平知康(たいらのともやす)を大将として法住寺殿に立てこもった。

 義仲は畏れ多くも法皇の御所法住寺殿を襲い四方へ火を放った。折からの激しき強風に火焔は八方に飛び紅蓮の焔(ぐれんのほのお)は天を焦がし地を焼き、法皇は車に召され火を避けられしも途中にて義仲のため五条の内裏へ遷され給い、又天台座主明雲大僧正(またてんだいざしゅめいうんだいそうじょう)、三井寺円智法親皇(みいでらえんちしんおう)以下多く射殺されたがこの如き人臣の道をわきまえない義仲はのち遂に頼朝に滅ぼされた。


宇治川の先陣 佐々木高綱

 旭将軍の異名を取った木曽義仲が、専横日に募り、遂に後白河法皇を幽閉し奉るに至った。そこで法皇は源頼朝に義仲追討を命ぜられたのである。

 頼朝は二人の弟、範頼と義経に命じ、兵六万を以て義仲を討つべく、範頼は三万五千を率い勢田に、義経は二万五千を以て宇治に向かったが、義仲は既にこのことあるを察し、勢田と宇治の二橋梁を落とし、岸には柵をめぐらし水中には乱杭、逆木を植え網を張るなど防戦の準備をしていた。

 義経はこの様を見て士卒に「このたびの合戦に功名したる者はいちいちその名を書き留め鎌倉に注進する、またあっぱれこの河を渡るものあらば敵に射さすな」と命令した。

 この時早や宇治川に馬を躍らせて先陣を競う二騎がある。先頭が梶原景季(かげすえ)、続くは佐々木高綱で両名とも頼朝より愛馬を貰い受け出陣し、景季は磨墨(するすみ)に高綱は池月に、高綱はもしこの合戦に功名ができざれば生きて再び頼朝公に見(まみ)えませぬと誓った面目上、是が非でも勝たねばならぬ、そこで高綱一策を案じ「梶原殿、貴殿の馬の腹帯が緩んでいるようだ」と言ったので、図られたとは知らず腹帯を引き締める間に高綱は追い越し、対岸に飛び上りざま「佐々木四朗高綱、宇治川の先陣仕った(つかまつった)」と名乗りを上げた。


鬼神に勝る巴御前の奮戦

 木曽義仲は京都に敗れ、更に近江に追撃せられ今は主従わずか十三騎、その中にただ一騎緑なす髪に鉢巻かいがいしく駿馬に跨り、長柄の薙刀かい込んで従う芙蓉の顔(かんばせ)、これぞ木曽義仲が愛妾(あいしょう)巴御前であった。

 この時関東方、畠山重忠(しげただ)勢は今日の手柄に討ち取らんと四方を囲めば、巴は群がる敵を蹴散らし、畠山勢はなだれを打って逃げた。関東方に豪勇並びなき重忠、不甲斐無き者どもよ女に追い立てられしとは何事ぞ、いでや巴を生け捕りにせんと馬を走らせ巴の左手の鎧の袖をむんづと掴めば、巴いかに思いけん一鞭当て馬は信濃第一の逸足(いつそく)、二間あまり跳ね飛び鎧の袖が引きちぎれた。さすがの重忠も感嘆の声をあげ巴は人にあらず鬼神(おにがみ)の振る舞いぞと驚いた。義仲らなおも落ち延びれば力二十人力言う東海一の豪の者内田家光(うちだいえみつ)巴を生け捕りにせんと駆け寄ったが、巴のためめ難なく首掻き取られ敵は身震いして逃げ去った。

 巴は木曽の住人中原兼遠(なかはらかねとお)の娘で才色兼備、殊に弓矢の道に優れ義仲の寵妾(ちょうめ)であった。


鴨越の嶮を越え義経の奇襲

 平家は都を落ち、摂津の一ノ谷の嶮岨(けんそ)に籠った。頼朝の命を受けた義経は一隊を土肥実平(どひさねひら)に授け一ノ谷に向かわせ、自ら残りの兵を率いて鵯越(ひよどりごえ)より奇襲すべく一ノ谷の裏山伝いに鵯越に向かったが、山険しく人馬ともに大いに悩まされた。そこで義経弁慶にこの山の道案内者を探し出せよと命じたところ、ようやく谷間のあばら家を見出し、この山の道案内を頼んだところ快く引き受けてくれた、これが鷲尾三郎経春(つねはる)でようやく鵯越絶頂に着き下を見下ろせば、今しも西南の門では敵味方入り乱れて大激戦の様がありありと見える。

 義経は道案内者に向かって屏風を立てた如きこの断崖を、人馬が通るかとの問いに、人馬は通りませんがたまに鹿が通るとの答えに義経、鹿は四足、馬も四足、鹿が通って馬が通れぬはずはないと大胆にも義経、左右を振り向き我に続けと一鞭当て降りれば、一同続いて一ノ谷を攻め火を放った。敵はこの不意の襲撃に狼狽し、ひとたまりも無く敗れ、海路屋島へとまた落ちのびた。


義経と梶原の逆櫓の激論

 兄頼朝の挙兵に馳せ参じた源義経は、梶原景時(かげとき)、伊勢義盛(よしもり)、那須与一、佐藤継信(つぐのぶ)等の猛将を率いて平家討伐の総大将として向かうところ敵なきが如く、旭日昇天の勢いをもってついにその目的を完成したが、寿永四年二月摂津より海路阿波に渡って平家と決戦を交えんとして水師を準備したとき、源氏としてはこれまで船にも海戦にも経験の乏しい者が多かったので、海上に戦を求めることを危険なりと主張する者があった。

 この時、梶原景時はいわゆる逆櫓の法と言って、兵船の舳先にも櫓を付けて退く際には速やかにこの逆櫓を利用して思うままに船を運用する議を献策したのである。すると義経は「戦いに退くことは禁物である。従って逆櫓は無用の長物である」と言って断固としてこれをしりぞけた。梶原は立腹して進むべき時に進み、退くべき時に退き、身をまっとうして敵を滅ぼすことこそ真の名将で、進を知って退くを知らぬは猪武者である」と罵倒すれば、義経は憤り「猪武者とは何事ぞ、我はただ進んで敵を倒すの愉快を知るのみ。梶原がもし軍の大将になったら付けたらよい。わが船に逆櫓は汚らわしい」と憤り、梶原も負けず応酬し、「わが主人は頼朝公ただ一人なり」とこれまた一歩も譲らず、義経は今はこれまでと刀の柄に手をかけ、烈火のごとく憤って梶原めがけてにじり寄る。あわや両々相打ちの大事に至らんとしたが、部下のものが必死となってようやくなだめて激論は鎮まった。

 しかし海戦に不慣れの義経の軍勢が屋島、壇ノ浦の両戦に大勝を博して平家を殲滅することができたのは全く義経の豪勇英断あり、梶原の智略賢謀と部下に多くの忠臣勇将があったからである。


壇ノ浦合戦 義経八艘飛び

 屋島の戦いに敗れた平家は、幼帝安徳天皇を奉じて西を指して逃れたが、豊後には源氏の将範頼(のりより)が控えているので、九州に上陸することができず、残船五百艘の舟帥をもって不安な海上の生活を続けていた。

 時に寿永四年三月二十四日義経は兵船七百余艘を率いて壇ノ浦に平家の兵船を攻め立てたので、ついに平家方の大敗戦となり、清盛の妻二位の尼は御年わずかに八歳におわせし安徳天皇を抱き参らせ「父帝のおわします方へ御供つかまつらん」と申し上げ、海中に身を沈めたことは誠に畏れ多き極みであった。

 この戦いに平家の勇将能登守(のとのかみ)教経(のりつね)は今生の土産に義経を討ち取って死なんと義経の船に近寄り名乗りを上げて詰め寄った。義経は組み付かれては叶わぬと思い、身を躍らして次々と兵船に飛び移りその身軽さにさすがの教経も叶わず身に数か所の矢傷を受け、もはやこれまでと前より組み付く敵を海中に投げ込み、後ろより組み付く敵もろともに海中に身を投じた。後世義経の八艘飛びとはこの飛鳥の如き早業を指して言う。

 かくして平家は清盛が太政大臣となって十数年、源頼朝が旗上げしてより僅か六年目にして「驕る平家は久しからず」という諺通り滅ぼされたのはむべなるかなである。


頼朝の猜忌 ついに義経の館を襲う

 源頼朝が鎌倉に居ながら平家を滅ぼしたのはおもに弟義経の功であった。しかるに頼朝は義経の智謀を妬み次第に危険視するに至った。義経は兄に相談せず、平時忠(たいらのときただ)の娘を妻とし、また頼朝の手を経ず内奏して官職に就いたことなどから憎まれるようになった。その上梶原景時が逆櫓の争いより何かと頼朝に讒訴(ざんそ)したので、義経を憎む心が一層激しくなった。

 そこで義経は兄に二心無き事を陳謝すべく鎌倉に下ったが、鎌倉に入ることさえ許されず、やむなく京都に帰った。これより頼朝は一層憎み、ついに土佐坊昌俊(とさのぼうまさとし)に命じ義経を殺すように命じ京都に向かわしめた。

 義経はそれと察し昌俊を呼び詮議すると「私は京奈良の寺々に参詣する考えで来た」との答え、義経、昌俊に向かい拷問にかけ白状さすべきだが兄の家来なれば特に見逃して遣わすが、この義経を殺す考えならばいつでも来たれ、と言って帰した。義経の慧眼通りその夜昌俊は兵を率いて義経の堀川館を襲った。この時家来はわずか七人と静御前であったが、軍馬の音に昌俊よくも来たな、と言いながら義経甲冑に身を固め敵を散々破り、昌俊は逃げたがのち義経に殺された。


大和絵の紹介の後、講演会に移りました。















 3.源平合戦(治承・寿永の乱) 1180年〜1185年・6年間にわたる大規模な内乱













「平安」という時代-1.
地方豪族の台頭・・・「武士」の起こり。





「平安」という時代-2 天皇家の軍事力を持たない平和な均衡の時代








































































謎の合戦絵巻」左上・幔幕の甲冑武士団・・・軍議か?

「謎の合戦絵巻」-6  2.左下・砦門前の首を挙げた若武者と兜割りの戦闘場面 楯の印は「源氏」。攻めるも源氏の旗指物。源氏が源氏を攻める?

「謎の合戦絵巻」-7 3.右上・長閑な子守風景             

馬上の異形の武士は何者?



「謎の合戦絵巻」-10 馬上の鎧武者は面皰を被っているのか、わざと悪相に描いたのか?

「謎の合戦絵巻」-11 左・門外は出陣に向かう武士団   右・出陣する武将を見送る妻と子の別れの場面

「謎の合戦絵巻」-12〜場面展開〜 (上)左・出陣の場面  右・床に臥せる女御と泣く侍女たち (下)左・亡くなった童子   右・亡くなった母親に取り縋る裸身の子供と白犬。

「謎の合戦絵巻」-13 (右下)床に臥せる女御と泣く侍女たち・・・・情景不明

「謎の合戦絵巻」-14 左・亡くなった童子に涙する夫婦
亡くなった童子は何者?・・・・・解釈不明。。

  「謎の合戦絵巻」-15 右・亡くなった母親に取り縋る裸身の子供と祈りをささげる尼僧。亡くなった女の方は何者?・・・・・解釈不明。。
                                                                                                                                   

「謎の合戦絵巻」-1
軸装の右肩が白く切り取られているのか?
 印を押す位置にも基準があり、冠帽印は、書の場合、第1字のやや右上方に(絵だけの場合は使用しないことも多い)押し、姓名印・雅号印は、二つ上下にならべて、同一線上に上に姓名印を、下に雅号印を押します。
合戦絵巻に「冠帽印」や「為書」や「画題」を署名する例はない。---------------補修の為の「白抜き」?


一乗寺の「謎の合戦絵巻」-16・・・まとめ・・・




        「治承・寿永の乱」








































治承・寿永の乱(源平合戦)ダイジェスト
1.「平治の乱」で敗北して以来、平氏(平家)の膝下に置かれ
ていた源氏の残党は、源頼朝を中心にして東国で蜂起。

2.平家の政治に不満を持っていた全国の武士団は、この動
きに同調。
 しかし、これを迎え撃つべき平家方は、京都以西の西国が
大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという
大波乱。

3.その間、源氏方には天才的な名将・源義経(九郎判官)が
登場し、 「一の谷」、「屋島」で平家の拠点を壊滅させた。

ついに関門海峡の「壇ノ浦の戦い」でこの一門を滅亡させる
ことに成功した( 1180年9月頃開戦〜1185年4月25日終戦(≒5年間)。

4. こうして、源氏の天下が到来。−−−>武家政権の誕生

5.頼朝は京の都の宮廷政治からの干渉を避けて、
鎌倉に幕府を置いた。


      「治承・寿永の乱」まとめ