不破成隆(ふわ しげたか)翁の生い立ちと業績

 
  不破成隆 (十一代・不破益三郎 長男・不破家十二代 産婦人医師)
略歴  明治37(1904)年2月13日 不破益三郎 長男として 岐阜県羽島市正木町不破一色296番地に誕生。
     昭和8年(1933) 30歳の時 開業。(24歳で日本大学医学部卒業後、同大学 産婦人科に入局。)
     昭和19年(1944)41歳 志願し、海軍医官(少尉)として、インドネシア・ボルネオ島に着任。
     昭和21年(1946)43歳 ボルネオの捕虜収容所より、6月復員。帰郷。
     昭和21〜23年
 根尾の薄墨桜の回生に奔走
     昭和35年(1960)57歳 羽島ライオンズクラブ結成に尽力。
         
同クラブに『薩摩義士』顕彰会を作って、委員長として尽力。
         鹿児島市とのクラブ交流に尽力。
     昭和39年(1964)61歳 日本ボーイスカウト・岐阜県連盟羽島第一師団を結成。
         師団長として、青少年の健全育成に尽力。
     昭和44〜45年  日本ボーイスカウトの代表(岐阜県連理事長・日本連盟理事)として、
         沖縄に2回訪問。
     昭和50〜55年   韓国・李 好子(李王朝に日本の梨本の宮家から嫁す)様御慰問に10回以上
         訪韓。このほかインドネシア(スカルノ大統領時代)・タイ王朝・カンボジア・ロシア・台湾
         ・カナダ・メキシコと機会ある度に旅行をして、親善友好を深めていた。又、ユネスコやオ
         イスカにも協力し、青年海外協力隊の派遣に岐阜県で尽力していた。知己友好関係は
         複雑で、枚挙に暇が無いので、省略。
     昭和54年(1979) 75歳 「マニラ紀行」
     昭和58年(1983) 79歳 「ボルネオ紀行」
     昭和59年(1984) 80歳 「悲喜交々---戦前戦後の所感」八月自費出版
     昭和60年(1985) 81歳 「大東亜戦争回顧録」八月自費出版
     平成1年 (1989) 85歳 6月25日、自宅にて死去。醫徳院就翁成道居士 
 


       不破成隆・・・・・醫徳院就翁成道居士

(1)根尾の薄墨桜の回生に奔走(知らぜらる業績)
(2)薩摩義士顕彰の業績。
「羽島ライオンズでの薩摩義士顕彰活動」
昭和35年、羽島ライオンズクラブが結成され、それに参加した翁は、かねて感心を持ち調査研究していた、薩摩義士の顕彰を提唱、クラブの承認を得て、その委員会を設置して委員長となった。翌年4月、当クラブは鹿児島ライオンズクラブ会長を招待し、同年10月、答礼のためクラブ代表らが鹿児島を訪問し、翁より両クラブの姉妹盟約を提案し承認された。 以後、毎年のように両クラブの交流が続けられ、その間、県への働きかけも続けられ、昭和43年5月には翁が岐阜県知事代理として、鹿児島の義士大祭に出向くまでにいたった。 昭和45年4月、翁は「血涙-薩摩義士略伝」を刊行し、同年5月、鹿児島県知事から感謝状を受けた。翌年7月には、岐阜県と鹿児島県が姉妹盟約を結んでいる。 翁は、昭和50年5月、鹿児島ライオンズクラブ会長から感謝状を受け、没後2年目の平成3年4月には、羽島大橋畔の薩摩義士公園に、両ライオンズクラブによって胸像が建立されている。

薩摩義士公園


1.羽島大橋は新幹線と平行に走る 一宮-大垣線と南北に走る岐阜-羽島線との交差点(ホテル平安閣)から大垣に向かって、西に2分で長良川畔の「薩摩義士公園」に到着します。西濃-岐阜-羽島市を一望できる唯一の観光スポットです。 (2005.09.26更新)


2.薩摩義士公園 入り口(東) 新幹線・岐阜羽島駅方面


3.薩摩義士公園 入り口


4.薩摩義士公園 入り口(西)


5.薩摩義士公園 入り口標柱(後ろに長良川)


6.薩摩義士公園 の薩摩義士の碑と不破成隆胸像


7.薩摩義士公園 の不破成隆胸像


8..薩摩義士公園 の薩摩義士の碑と不破成隆胸像(北側面)


9..薩摩義士公園 の薩摩義士の碑と不破成隆胸像


10.薩摩義士公園 の北の長良川上流・岐阜金華山(中央の山)


11.薩摩義士公園 の北の長良川上流・建設省の『長良川』標示板


12.薩摩義士公園 内の休憩所


13.薩摩義士公園 内の遊歩道


14.薩摩義士公園 西側・長良川とサンヨーのソーラパネル(太陽光発電)山は伊吹山系

    薩摩義士公園 ご案内 おしまい