不破成隆(ふわ しげたか)翁のあゆみ展
時・ 
平成15年(2003).4.12(土)〜7.13(日)まで

所・岐阜県羽島市歴史民俗資料館-企画展示室


           不破成隆 75歳
不破成隆について。
略歴  明治37(1904)年2月13日 不破駅三郎 長男として岐阜県羽島市正木町不破一色296番地に誕生。
     昭和8年(1933) 30歳の時 開業。(24歳で日本大学医学部卒業後、同大学 産婦人科に入局。)
     昭和19年(1944)41歳 志願し、海軍医官(少尉)として、インドネシア・ボルネオ島に着任。
     昭和21年(1946)43歳 ボルネオの捕虜収容所より、6月復員。帰郷。
     昭和21〜23年 根尾の薄墨桜の回生に奔走。
     昭和35年(1960)57歳 羽島ライオンズクラブ結成に尽力。
         同クラブに『薩摩義士』顕彰会を作って、委員長として尽力。
         鹿児島市とのクラブ交流に尽力。
     昭和39年(1964)61歳 日本ボーイスカウト・岐阜県連盟羽島第一師団を結成。
         師団長として、青少年の健全育成に尽力。
     昭和44〜45年  日本ボーイスカウトの代表(岐阜県連理事長・日本連盟理事)として、
         沖縄に2回訪問。
     昭和50〜55年   韓国・李 好子(李王朝に日本の梨本の宮家から嫁す)様御慰問に10回以上
         訪韓。このほかインドネシア(スカルノ大統領時代)・タイ王朝・カンボジア・ロシア・台湾
         ・カナダ・メキシコと機会ある度に旅行をして、親善友好を深めていた。又、ユネスコやオ
         イスカにも協力し、青年海外協力隊の派遣に岐阜県で尽力していた。知己友好関係は
         複雑で、枚挙に暇が無いので、省略。
     昭和54年(1979) 75歳 「マニラ紀行」
     昭和58年(1983) 79歳 「ボルネオ紀行」
     昭和59年(1984) 80歳 「悲喜交々---戦前戦後の所感」八月自費出版
     昭和60年(1985) 81歳 「大東亜戦争回顧録」八月自費出版
     平成1年 (1989) 85歳 6月25日、自宅にて死去。 謚 醫徳院就翁成道居士  
 

 不破成隆は明治37年2月13日誕生し、医師になってから十有余年目の41歳の時、昭和19年・太平洋戦争の真っ只中、敗色濃厚になって来た日本国を憂いて、兵役義務の無い41歳で、しかも、身長154cmと丙種合格にもならなかったにもかかわらず、無理に頼んで、海軍を志願して、何とか「海軍医官」の少尉として入隊する。入隊直後、すぐ海軍の4発の大型水上艇(名前は亡失)で、南方 インドネシア-ボルネオ(カリマンタン島)に派遣された。若くなかったためか、比較的安定した後方医療を担っていた。戦地の病院とは名ばかりの椰子の葉で葺いた病棟は戦傷兵を診るより、現地民を診療している方が多かったと言う。最初はバリクパパン(ボルネオ島南東部にあるインドネシアの都市)で診療をしていたが、昭和20年、戦局がいよいよ激しくなり、病院がロッキード戦闘機で機銃掃射されたりして、死ぬ目に合ったりしたため、やや奥地のバンジャルマシン(南カリマンタン州の州都で、町中を川や運河が流れている。全体は湿地帯で在ったと言う)に移動して、終戦の20年8月まで、戦傷兵を見る傍ら、軍上部からの叱責を受けながらも、現地民の大人・子供にかかわらず、親切に診療していた・・・と回顧していた。終戦後、成隆や軍人軍属など2000名ほどが捕虜になった。たまたま占領軍がオランダとオーストラリア混合部隊であったため、片言のドイツ語で会話が出来た・・・と言う。捕虜収容所で、捕虜になってまもなく、成隆に、オランダの収容所長から『所長室に来るように・・・』と命令を受けた。『いよいよ最後か』と腹をくくって、出頭したところ、所長は笑顔で、手を差し延べ『ドクトル フワ、現地の人々が貴君の無罪と助命に来ている。貴君は、日本兵だけでなく、現地の人達にも、良くぞ分け隔てなく診療をしてくれました。現地の皆さんに代わってお礼を申し上げたい』と言った・・・という。が、そこまで、オランダ語が理解出来たかどうかは分からない。(あくまで伝承---息子の私が父から聞いた話です) 兎に角、銃殺か絞首刑を覚悟していた成隆は、まだこの時は死刑か生かされたのか半信半疑であった・・・と言います。しかし、笑顔の所長はオランダや同盟軍のオーストラリアの軍医を呼んで、戦地に行ってから、初めて目にする「ワラジ」程もあるビーフステーキや焼きたてのパンや涙の出るほど美味しかったスープで振舞われた時は、『この世の中にコレほど美味いものが在るのか』と涙が出たそうです。と同時に、『こんな美味いものを喰っている連中に、飲まず喰わずで戦っている日本軍が勝てる分けないなぁ』とも思った・・・と言っていました。捕虜収容所に入れられた、終戦当時、海軍少佐に昇進していた成隆は、捕虜収容所内でトラブルが起こると、収容所長が直接、成隆を呼び出し、所長より取り纏めの指令を受けるも、自分より身分の高い軍の上官が居たため、『板ばさみになって困った・・・』とも言っていました。この後、終戦の翌年の昭和21年6月、丁度 麦刈りの真っ最中に、熊のような黒髭をたたえて、ニコニコ笑って、何の予告も無く家に帰ってきました。予想以上に早い帰還に、家中、大騒ぎして、無事の帰宅を祝ったのを覚えています。

 薄墨桜の根継ぎについて。

 帰還後、診療の傍ら、余技の絵筆を執って暇をつぶしておりました。そんな夏の折、岐阜市の神田町通りの丸物(まるぶつ=後の近鉄百貨店=閉店)の画廊で絵筆や岩絵の具などを買い求めている時、画廊が開いていたため、覗いてみると 堀 飛火野(とぶひの)---(私たちは「ほり ひかの」さんと呼んでいました)個展開催中で、淡彩の絵であったため、気に入った絵を買ったそうです。このときの堀 飛火野さんは、結膜炎を患い、メガネの奥の眼は膿でべったりしていたため、『私は医者だが、もし良かったら診てあげましょう』と言って、名刺を渡したそうです。程なく、堀 飛火野氏が来宅し、そうこうするうちに、食客となり、家人の仲間みたいにしておられました。絵筆を採る以外は魚釣りが大好きで、しょっちゅう子供の私を連れて(このころ5歳)田んぼの中のため池や川(足近川や境川)に連れて行かれました。
ある時、堀 飛火野さんのスケッチ帳をみていた成隆が
成隆『コレは何の絵ですか?』とたずねたところ
飛火野『コレは谷汲の奥の根尾の薄墨桜(うすずみざくら)でございます』
成隆『薄墨桜?ハテ?』
飛火野『継体天皇お手植えの桜でございますが、もう枯れかけております』
成隆『継体天皇お手植えといえば国指定天然記念物の薄墨桜の事か?』
飛火野『さようでございます』
 こんな会話の後、飛火野氏と共にに、当時としては交通不便な谷汲の奥の根尾に現地踏査し、まさにスケッチ帳に書かれていた通りの枯死寸前の、枝折れ、葉もまばらな大人五人抱えの巨大な太さの桜を見た時、成隆は『この桜を枯らすわけにいかん。継体天皇お手植えの上、国指定の天然記念物を枯らすわけにいかん』と思い、岐阜県の当時の産婦人科学会の会長をしておられた 前田 洲先生の尊父・利行氏が根継ぎの技術を持っておられることを思い出し、早速、岐阜市下太田町の前田家に行き、仔細を話し、相談した・・・と言う。このとき前田利行翁は、あまり気乗りしない返事であった・・・と言う。それもそのはずで、小さい木であれば、まだしも大人五人抱えの巨大な桜の根継ぎとなると、ひとりでは出来ない。このため、資金・人材・人夫やトラックに機材や現地の宿泊や食事など、大変な作業になる事を伝え、成隆にあきらめるように諭した・・・と言う。しかし、この後、成隆は逆に闘争本能に火が付いたと言うか、寝食を投げ打って行動に出た。まず、当時の県知事・武藤嘉門氏を訪ね「国指定天然記念物の薄墨桜」の窮状を話し、県からの補助金を依頼したが『不破さんの気持ちは分かる。が、しかし、県には金が無いんじゃヨ。戦争が終わって岐阜市は焼け野原。こんな民心が困窮しておる時に、国指定天然記念物の薄墨桜に県費を出すわけにはいかん。不破さんの心情と欲心の無いこともよーく分かった。そこで、資金を出してくれそうな人を紹介しよう』と言って、武藤嘉門自身の名刺に紹介先の人や会社など記して、紹介状代わりに渡された・・・と言う。この後、又、寝食を忘れて、紹介先を訪ね歩き、集めること20万円、集めた人夫40人・トラック2台に荒縄や棕櫚縄などを取り揃え、根尾村出かけて村長には村の宿泊を頼み、学校の校長には夏-秋に落ち葉を集めて堆肥にしておくことなどを依頼したり、あちこちに働きかけ、奔走し、さて準備万端。後は前田利行翁に矢の催促。この成隆の行動に心を動かされた利行翁は、丁度、戦後復興の槌音響く、昭和22〜23年の岐阜市の腕の良い棟梁を集め、昭和23年3月、まだ積雪のある、根尾村に行き、薄墨桜の根継ぎを行った。
 薄墨桜の根継ぎを指導・指揮したのは前田利行翁。
 薄墨桜の窮状を紹介したのは画家・堀 飛火野(とぶひの)氏。
 薄墨桜の根継ぎを実行・準備したのは不破成隆。
このように父から聞いております。

 薩摩義士顕彰について。
 この件に関しては、今回の「不破成隆翁のあゆみ展-図録」の5ページに書かれている「羽島ライオンズでの薩摩義士顕彰活動」以外に不破家に伝わる知見・伝聞は無いので省略します。(以下、「不破成隆翁のあゆみ展-図録」の5ページに書かれている「羽島ライオンズでの薩摩義士顕彰活動より)
「羽島ライオンズでの薩摩義士顕彰活動」
昭和35年、羽島ライオンズクラブが結成され、それに参加した翁は、かねて感心を持ち調査研究していた、薩摩義士の顕彰を提唱、クラブの承認を得て、その委員会を設置して委員長となった。翌年4月、当クラブは鹿児島ライオンズクラブ会長を招待し、同年10月、答礼のためクラブ代表らが鹿児島を訪問し、翁より両クラブの姉妹盟約を提案し承認された。 以後、毎年のように両クラブの交流が続けられ、その間、県への働きかけも続けられ、昭和43年5月には翁が岐阜県知事代理として、鹿児島の義士大祭に出向くまでにいたった。 昭和45年4月、翁は「血涙-薩摩義士略伝」を刊行し、同年5月、鹿児島県知事から感謝状を受けた。翌年7月には、岐阜県と鹿児島県が姉妹盟約を結んでいる。 翁は、昭和50年5月、鹿児島ライオンズクラブ会長から感謝状を受け、没後2年目の平成3年4月には、羽島大橋畔の薩摩義士公園に、両ライオンズクラブによって胸像が建立されている。

薩摩義士公園について。
※羽島大橋は新幹線と平行に走る 一宮-大垣線と南北に走る岐阜-羽島線との交差点(ターミナルホテル・フォロロマーノ=羽島平安閣)から大垣に向かって、西に1qで長良川畔の「薩摩義士公園」に到着します。西濃-岐阜-羽島市を一望できる唯一の観光スポットです。   (2003.4.24 不破  洋 記す)